和平村
令和3年5月20日
中国語名:和平村
貴陽市中心部から東へ約270キロ、鎮遠県内の鎮遠古鎮(別掲)にほぼ隣接する位置にある旧日本軍捕虜の収容所跡(「村」となっているが地域の呼称ではない)。国内で2番目に建設されたので「軍政部第二俘虜収容所」とも呼ばれる。「和平村」と掲げた古い門をくぐると、事務棟及びその後ろに収容施設が再建されている。収容所は、孫文の大写真を背景とするホールの両脇に捕虜用のベッドがびっしり並んでいて、2階は当時の写真資料が展示されている(2021年5月現在、2階は改修工事中)。1938~1946年の間に最大540人の捕虜(朝鮮籍や台湾籍を含む)が収容されていた。この場所はまた、鹿地亘など日本人反戦思想家が、捕虜を再教育し、旧日本軍への宣伝工作を行う「日本人反戦革命同盟会西南支部」を1939年に立ち上げた拠点でもある。2階には捕虜の日常生活の様子を示す写真に加え、この組織の活動についての写真資料も残されている。現在、この施設の周囲は賑やかな商店街となっている。無料。



貴陽市中心部から東へ約270キロ、鎮遠県内の鎮遠古鎮(別掲)にほぼ隣接する位置にある旧日本軍捕虜の収容所跡(「村」となっているが地域の呼称ではない)。国内で2番目に建設されたので「軍政部第二俘虜収容所」とも呼ばれる。「和平村」と掲げた古い門をくぐると、事務棟及びその後ろに収容施設が再建されている。収容所は、孫文の大写真を背景とするホールの両脇に捕虜用のベッドがびっしり並んでいて、2階は当時の写真資料が展示されている(2021年5月現在、2階は改修工事中)。1938~1946年の間に最大540人の捕虜(朝鮮籍や台湾籍を含む)が収容されていた。この場所はまた、鹿地亘など日本人反戦思想家が、捕虜を再教育し、旧日本軍への宣伝工作を行う「日本人反戦革命同盟会西南支部」を1939年に立ち上げた拠点でもある。2階には捕虜の日常生活の様子を示す写真に加え、この組織の活動についての写真資料も残されている。現在、この施設の周囲は賑やかな商店街となっている。無料。







